個性の時代に
先日だらだらとネットしていたら、「港区女子」なる言葉に遭遇した。港区女子にあてはまる女性がどれだけいるのか分からないが、そのイメージの喚起力はなかなかすごい。「資本主義の大海を泳ぐ色とりどりの華麗(加齢)で貪欲な魚」。「◯◯女子」の系譜にまた新たな言葉が。
「森ガール」や「サブカル女子」、「サードウェーブ系男子」のような括りはどれも乱暴で雑だけど、現象としてはとても面白いものがあるように思う。最初は、本人たちは「森ガール」や「サブカル女子」になりたかったわけではないはずだが、カテゴライズされると、そのカテゴリーに入りたくなる(あるいは入りたくなくなる)ということはあるようで、多数のフォロワーやアンチを生みだした。
「あるスタイルを選択するかどうか」ということと「そのスタイルが人からどう見られているか」ということはかなり強い結びつきがありそうで、個性的ではありたいけど、あまり個性的でありすぎると人から理解されなくなる。その境界線で頑張らないといけないのは、今も昔も変わらないのだろう。
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最近 never young beach というバンドの音楽をよく聞いている。
never young beach -あまり行かない喫茶店で(official video)
いまの若い人(10代や20代前半くらい)がどう聞いているのか分からないけど、ある年齢を超えた人には「懐かしい」ものとして聞かれるんじゃないか。思い出されるのは「サニーデイサービス」や「はっぴいえんど」なんかだ。
彼らの音楽がその「元ネタ」を超えてオリジナリティがあるのかどうかは音楽雑誌に任せるけど、never young beach というバンドの個性の表出に大きな影響を与えたのは間違いない。売れてしまった(?)あと、彼らがこれからどんな音楽を作っていくのか、とても興味深くみている。
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日本には村上春樹という人気作家がいる。高校生の頃はよく読んでいたのだけど、村上春樹という作家の裏側には、レイモンド・チャンドラーやスコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガンといったアメリカの作家たちがいた。後になって気づいたのは、私が高校生のときに好きだったのは、村上春樹の文学そのものではなく、その中にいたレイモンド・チャンドラーたちであったことだ(そしてレイモンド・チャンドラーたちの中にも、また他の作家たちがいる)。
もちろん、村上春樹の小説はただそれらの作家のスタイルをマネしただけのものではなく、彼なりのアレンジ(しかも超一流の)が施された作品だ。特に独特の比喩表現を駆使した「僕」文体は優れた武器だ。
しかし、村上春樹は「ねじまき鳥クロニクル」の後、その文体を捨てる。それは、彼の中にいるレイモンド・チャンドラーたちからの決別であり、作家としてのオリジナリティを追求するための試みであったのだと思っている。その成否はいまだ決していないが、すでに人気作家としての地位や名声を確立しているにもかかわらずそのような冒険に出たこと自体は、高く評価されるべきことなんじゃないか。
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ドレスコーズのアルバム「平凡」はとても面白くて、個性についての問いかけに二重性がある。一つは聞き手に対して個性を問いかけていること。もう一つは個性的であらなければならないロックスターである志磨遼平自身が、個性について自分自身に問いかけていることだ。(公式HPに全歌詞が掲載されています。2017/6月現在)
20世紀は個性(=差異)を欲望によって表現する時代だった。デザイナーやマーケターは差異をコントロールすることで欲望を喚起してきた。その結果としてさまざまな面白いものやくだらないものが生まれたわけだけど、今までのやり方ではいきづまることが多くなってきた。インターネットやSNS、少子化などの社会の変化・・・いろいろな物事に巻き込まれながら、人々の欲望のかたちはいま変わりつつある。ネットやメディアの喧騒の裏側で、これからの”欲望なき”時代に、若者たちがどのようなものを創り出していくのか、とても楽しみな気持ちにさせられた。
メインビジュアルのボツ案集 - 特集「世界には輪郭なんてない」編集後記にかえて
特集「世界には輪郭なんてない」が公開されました。
11月のアメリカ大統領選の結果もあり期せずして社会派(死語)な内容となっています(4ヶ月くらい前から準備していたので、そんなつもりはなかったのですが)。
なかなかまとめるのが大変なテーマでしたが、編集側としてもとても楽しんでやることができました。全て良い記事だと思っていますので、みなさまぜひ読んでみてくださいね。
さて、このブログは記事の宣伝も兼ねて駄文を書くのが常なのですが、力尽きてそれすらちょっとエネルギー足りてないかんじになっており。言葉をちゃんと考える気力がないので、こういうときはビジュアルでごまかすに限る。
そんなわけで特集トップビジュアルのボツ案を公開してみたいと思います。
それでは、いってみましょう。
ボツ案その1
あー輪郭がなさそうなかんじですね。なるほどなるほど。
ボツ案その2
ふむ。こちらは「境界線 」というテーマに寄せたかんじでしょうか。ちょっとインパクトに欠けますかねえ。
ボツ案その3
・・・・なぜ魚?
ボツ案その4
なるほど、水は輪郭がない、というところからのイメージですね。うーん、なるほど。
ボツ案その5
あ、これいいですね。そこはかとなくグルスキーっぽいかんじ。
これはちょっと好き。
ボツ案その6
これもまずまずじゃないですかね。ボツ案1をもうちょっと進めたかんじ。空の青も山の端の曲線も美しいし、悪くない。
採用案
最終的にこれが採用案。
でも実はもともとはこれにしようとは思っていませんでした(案5か6、あるいはそれをもう少し進めたものが有力だった)。なぜかというと、誤解されるおそれがあるかなあとちょっと心配だったからです。
今回の特集では、もともとジョン・レノン的な imagine there's no countries を言いたいわけじゃありませんでした。それよりも、もっと根源的なところ、人間の認知や認識のしくみ、あちら側とこちら側であることのどうしようもなさについて考えたかった。
このビジュアルはジョン・レノン的ニュアンスを含んでいて、特集自体がそういう目で見られてしまうおそれがあると思っていました。なので、最初は選択肢としてはなかったです。
なかったんですが、なぜこれにしたかというと、やっぱりアメリカ大統領選の影響があったんでしょうね。極東の島国でこんな特集を組んだところでカウンターとなるなんて思ってはいないのですが。
でもいい写真だと思います。
そんなかんじでした。以上、参考になりましたら幸いです(誰に)。
「Imagine」はひさびさに聞くととても良い曲ですね。この曲を聞いている間だけは、バカな平和主義者でいることにいたしましょう。
それではみなさま、メリークリスマス、アンド、ハッピーニューイヤー。
都市とホームレス
最初に「都市と都市」を読んだとき、設定は面白いと思ったけれど、そんなことあるのかなあ、ちょっと現実離れしすぎてる設定なんじゃないかなあ、と思った。
でもあるとき、実はふだんから僕らはこのスルースキルを使っていることに気がついた。
それは、ホームレスの人たちのこと。
僕らと彼らは、同じ空間にいるときでも、「都市と都市」のべジェルとウルコーマの人たちほどに離れている。
街を歩いている時、僕らは彼らの姿を見ているけれども、たぶん本当には見ていない。
絶対に声はかけないし、彼らが僕らに声をかけることもない。(一昔前は、「お兄さん、隣の駅まで行きたいんだけど」といって小銭をせびってくる人もいたけど、今ではすっかりそんなこともなくなった。)
彼らから僕らがどんなふうに見えているのかは想像もつかないのだけれど、少なくとも、彼らが見ている街と僕らが見ている街は、全然違うものだろう。
同じ場所にいながら違う国家にいるのと同じくらいに、あるいはそれ以上に。
少し前に、ホームレスの人たちが横になれないようにベンチが設計されていることが話題になった。
これは「ブリーチ」だ。
一方で、坂口恭平さんのように、ホームレスの中に入っていこうとする人もいる。
これも「ブリーチ」だ。
ホームレスのひとたちのことを考えるとき、本当にどうしたらよいのかわからなくなる。
俳句こそが最強のVRである
今年はVR元年らしいです。
VRとは、
簡単に言うとVRというのは、「現実ではない空間を現実のように体感できる技術」のことです。ただ画面を見るのではなく、その世界に入り込んでいる感覚=「没入感」が与えられるのが特徴です。
とのこと。
みなさまも記事の写真にあるような大げさなヘッドマウントディスプレイをご覧になったことがあるのではないでしょうか?
このヘッドセットをかけると、視野が全てコンピュータ・グラフィクスで作られた画面の中に収められます。また、首を動かすとそれに合わせて画面が動くため、あたかも自分がその世界に入り込んでいるかのように感じることができる、ということのようです。
私たちがこの世界を認識する過程において、五感の中でも視覚と聴覚はとても大きな役割をはてしているといいます。
だからこそ、視覚と聴覚に訴えかけるこのような製品が、ヴァーチャルな「リアリティ」を実現する技術として大きな注目を浴びているのでしょう。
とはいえ、私達の認識は視覚と聴覚だけで成り立っているわけではありません。
VRヘッドセットで仮想現実を楽しんでいたとしても、誰かに腕を触られたり、どこからか秋刀魚の焼ける美味しそうな匂いがしてきたりしたら、ただちにその仮想現実から引き戻されてしまうのではないでしょうか?
そういう意味で、現時点では、"より臨場感があるゲーム・映像表現の発展形"というような評価をしていいのだろうと思います。
質的にこれまでの「リアリティ」を大きく変容させるものかどうか、は今後のVR表現の深化にかかっているのではないかと思います(とても期待しています)。
さて、そんなヴァーチャル・リアリティですが、そんな言葉ができるよりずっと以前から、人間はヴァーチャル・リアリティを体験してきました。
それは、言葉であり、物語です。
「バナナ」
という言葉を受け取ったとき、私たちは不可避的にバナナ的現実を私たちのからだの
うちに再生します。それは黄色い房状の果物の映像かもしれませんし、それを食べたときの味の記憶かもしれません。あるいはVelvet Undergroundの音楽かもしれません。
いずれにしても、言葉によって呼び起こされたもの(=「リアル」)を、たしかに私たちは感じるし、それは「バナナ」という文字そのものとは同じものではありません。
「バナナ」をVRだとすることに納得できないのであれば、それでは物語はどうでしょうか?
言葉で描かれた、あるいは映像で表現された他人の人生に心を動かされ涙を流すことは、ヴァーチャル・リアリティとは呼べないでしょうか?
ヴァーチャル・リアリティの定義をこのように広くとった場合に、VRとして私が最強だと考えているのは、俳句です。
その理由は・・・・・、
たぶんこの記事を読むとわかると思います!(すいません、この文章は記事の宣伝文なのでした笑)
ぜひご一読ください〜
特集「よくわからなくなるお金のはなし」
みなさまこんにちは。編集部Hです。
少し間があいてしまいましたが、決して仕事をさぼっていたわけではございません。
粛々と準備をしておりました特集が公開になりましたので、宣伝させてください。
お金にまつわるモノゴトを様々な角度から考えてみた特集です。
1つくらいはひっかかる記事があると思うので、ぜひご覧ください。
どこかに書いてあるように、ちょっとでもお金のことがよくわからなくなっていただけたら幸いです。
・・・・・・
宣伝だけだと申し訳ないので、ちょっとした編集後記でも書いてみます。
そうですね、では、そもそもなんで「お金」について特集することになったのかについて。
これは実はほとんど理由がありません。
以前から「お金」については漠然とした疑問というか、疑問以前の違和感みたいなものはあったのですが、 まあ特にそれが顕在化することもなく。資本主義社会ファックのようなコウショウな考え方も持ってないです。
Hには銀行員の同級生がいるのですが、以前に彼にインタビューを申し込んで断られたことがありました。で、まあそれは別によくて、ただせっかくなのでお金についてメールでいろいろと質問をしてみました。
「銀行員とか証券会社の仕事ってなんでそんなに儲かるの?」「お金からお金を生み出す仕事が、いまの経済システムの中で評価されすぎてるんじゃないの?」みたいなことを聞いた気がします。向こうからすれば嫌がらせですね。何回かやりとりした後、返事は来なくなりました(笑)
1人で考えざるをえなくなったので、お金についての本や経済学の本なんかも読んでみたのですが、読めば読むほどわからなくなっていくばかり・・・。
そうだ、1人じゃダメだ、みんなの力を合わせなきゃ、、、!
というのが特集のきっかけです。
結論めいたものを引き出すのは難しいだろうなあとは思ったのですが、そもそも私含め普通の人は、お金ってなんだろう?とか普段は考えないですよね。地球が太陽のまわりをまわっているのか、太陽が地球のまわりをまわっているのか。問題さえ起きなければどっちでもいい。(天体の物理法則を考えなきゃいけない事態はヤバそうだ。)
天体ほどではありませんが、お金については「問題が起きつつある」というところでしょうか。我々を含んでいる大きなシステムについて、そろそろ、"再び"自覚的になったほうがよいのかも。そんなことを思ったりもしていました。結論はでなくても、お金について普段とはちょっと違った目で見てもらうだけでも意味があるんじゃないか?そう私のゴーストが囁いたわけでございます。
そんなわけで、小さいですが、この特集がちょっとでも波風となれば、というところですね。"北京の蝶"、の心意気です。
以上、ちょっとした編集後記でした。
それでは特集記事のほう、ぜひ読んでみてくださいー!
生き物と生き物じゃないもののあいだ
ゲスの極み乙女時代
神聖かまってちゃん時代があり、HASAMI group時代があり、SEKAI NO OWARI時代があり、そして長い年月のあとにゲスの極み乙女時代がやってきた。
ゲスの極み乙女時代にあっては、サブカル女子たちはサードウェーブ系男子たちにうまく水を向けて告白をさせ、その後数ヶ月のあいだ二人で仲良く肩を並べて、交際のお祝いにもらったありとあらゆる種類のサブカルグッズに対するツイートをしたためることとあいなった。
ヴィレッジヴァンガード、中野ブロードウェイ、下北沢の路地裏、そしてネットの片隅に点在するオンラインショップ・・・・、一〇年代においてはサブカルグッズはとくに珍しいものではなくなっていたものの、人気は当時ことのほか高く、六本木ヒルズの瀟洒な1LDKから、地方大学近くのアパートの小部屋にいたるまで、サブカルグッズはいたるところで眩い光を受けて光っていた。
同棲が始まると、松本大洋と浅野いにおの漫画は、表紙を正面にして本棚に並べられる。バンドTシャツは壁にかけられ、いくつかの缶バッジがそこに安全ピンでとめられる。寺山修司と雨宮処凛の文庫版は無造作風に机の上に積まれ、佐々木敦が推薦する小劇団のDVDは、その両側に鎮座する。
ーーそしてそれから、生き残りのための苦難が始まった。
友人に貸した四畳半神話大系のDVDは、貸したはずのない明石さんグッズとともにヤフオフで売られる。スタバでスライムヘッドホンを褒められたのがきっかけでサブカル女子が浮気したため、ゲーム機とヘッドホンは捨てられる。ジャンルごとに分かれていたTwitterとインスタのアカウントは、ファッションオタクの粘着にあい、徐々に数を減らす。 そしてiTunesに入っている音楽ファイルまでもが、まるでAKBから卒業していくメンバーたちのように、ひとつまたひとつと姿を消していった。最後まで残った曲のひとつは、「ソラニン」の宮崎あおいバージョンで、サードウェーブ系男子が部屋を出て行くと、それも再生されることもなくなった。
しかしこれらのことが全部ひととおり終わったころには、ゲスの極み乙女時代もまた終わりを迎えていた。
そして中込の時代がやってくる。
※ 本文と記事は無関係です。
※ 元ネタはフィッツジェラルド「カットグラスの鉢」の冒頭部分