俳句こそが最強のVRである
今年はVR元年らしいです。
VRとは、
簡単に言うとVRというのは、「現実ではない空間を現実のように体感できる技術」のことです。ただ画面を見るのではなく、その世界に入り込んでいる感覚=「没入感」が与えられるのが特徴です。
とのこと。
みなさまも記事の写真にあるような大げさなヘッドマウントディスプレイをご覧になったことがあるのではないでしょうか?
このヘッドセットをかけると、視野が全てコンピュータ・グラフィクスで作られた画面の中に収められます。また、首を動かすとそれに合わせて画面が動くため、あたかも自分がその世界に入り込んでいるかのように感じることができる、ということのようです。
私たちがこの世界を認識する過程において、五感の中でも視覚と聴覚はとても大きな役割をはてしているといいます。
だからこそ、視覚と聴覚に訴えかけるこのような製品が、ヴァーチャルな「リアリティ」を実現する技術として大きな注目を浴びているのでしょう。
とはいえ、私達の認識は視覚と聴覚だけで成り立っているわけではありません。
VRヘッドセットで仮想現実を楽しんでいたとしても、誰かに腕を触られたり、どこからか秋刀魚の焼ける美味しそうな匂いがしてきたりしたら、ただちにその仮想現実から引き戻されてしまうのではないでしょうか?
そういう意味で、現時点では、"より臨場感があるゲーム・映像表現の発展形"というような評価をしていいのだろうと思います。
質的にこれまでの「リアリティ」を大きく変容させるものかどうか、は今後のVR表現の深化にかかっているのではないかと思います(とても期待しています)。
さて、そんなヴァーチャル・リアリティですが、そんな言葉ができるよりずっと以前から、人間はヴァーチャル・リアリティを体験してきました。
それは、言葉であり、物語です。
「バナナ」
という言葉を受け取ったとき、私たちは不可避的にバナナ的現実を私たちのからだの
うちに再生します。それは黄色い房状の果物の映像かもしれませんし、それを食べたときの味の記憶かもしれません。あるいはVelvet Undergroundの音楽かもしれません。
いずれにしても、言葉によって呼び起こされたもの(=「リアル」)を、たしかに私たちは感じるし、それは「バナナ」という文字そのものとは同じものではありません。
「バナナ」をVRだとすることに納得できないのであれば、それでは物語はどうでしょうか?
言葉で描かれた、あるいは映像で表現された他人の人生に心を動かされ涙を流すことは、ヴァーチャル・リアリティとは呼べないでしょうか?
ヴァーチャル・リアリティの定義をこのように広くとった場合に、VRとして私が最強だと考えているのは、俳句です。
その理由は・・・・・、
たぶんこの記事を読むとわかると思います!(すいません、この文章は記事の宣伝文なのでした笑)
ぜひご一読ください〜